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明けの明星については、二通りの意味があります。イエス・キリストの復活が現れるまでに用いられている明けの明星と、復活の後に用いられている明けの明星です。
聖書全体の流れが分かれば、よく分かることなのですが、ヘブライ語の原文で、イザヤ書やエゼキュル書に、輝くものとか、尊いものとかいう言い方で、明星と同じ内容の言葉が使われているのです。
光れるものという言い方をしている所もあります。輝くとか、光るということが、地球が造られたことの原点に関係があるのです。本当の輝くということが、命の完成を意味しているのです。このことは、東洋人にとって非常に難解なことなのです。
釈尊が明けの明星を見たということは、東洋人として、見るべからざるものを見たことになるのです。これは、地球が存在していることの秘密なのです。
釈尊が明けの明星を見たということは、伝説的に日本に伝わっています。釈尊という人物の人格から考えて、ありそうなことですが、釈尊が明けの明星を見たのはどういうことなのか。何を悟ったのか。仏法というものの本質は、一体何をさすものなのかが、今の仏教界に分かっていないのです。
明星は、良い意味におけるものと、悪い意味におけるものと、二つの意味があるのです。
地球が造られたことが、明星に大関係があるのですが、地球が造られる前に、物のあり方の典型があったのです。この世が始められる前とか、創世以前という言葉が、新約聖書にたくさん出てきます。これが現代人にとってどういうことか、全然分からないのです。
●生ける神が口を開く
新約聖書に、『わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』とあります(マタイによる福音書ほ13・53)。神が口を開いて譬を語るとは、一体どういうことかということです。神は元来、一方的に何かをすることはありません。例えば、『神は「光あれ」と言われた。すると光りがあった』という言葉があります(創世記1・3)。このように、神が独語するという形で、神の口が開かれることによって、宇宙の構造が変化しているのです。
日本には、生ける神が口を開くというような、広大無辺の思想がないのです。これは日本だけではなくて、中国でも、インドでも、東洋全体が、そうなのです。神が口を開くという思想は、聖書以外にはありません。
神は絶対者であって、絶対がロを開くと、絶対的な動きが現れてくるのです。神がロを開いて譬を語るとはどういうことかと言いますと、神の思想の原点のようなものが、そのままきわめて素朴な状態で、むき出しに言われているのです。
譬とは何かと言いますと、仏教的に言えば、曼陀羅になります。私たちが肉体的に生きていることが、譬なのです。私たちの命は、曼陀羅なのです。実物とは違うのです。死ぬにきまっている命は、譬としての命なのです。
人間存在そのものが、曼陀羅です。譬です。現在、私たちが生活している地球という惑星が譬なのです。太陽があることが、譬なのです。太陽系宇宙が存在することが、蔓陀羅であり、譬であって、これを譬として読むような大きい思想、大きい度量がなければ、本当の真理をつかまえることはできません。
私は、何かの情報とか、宗教を述べているのではないのです。私たちが現世に生まれて、今日までの間、いろいろな学問とか、常識、世間並の通念をあれこれと経験してきたわけですが、これはすべて譬だったのです。
私たちが現在生きていることが、譬なのです。譬というのは、端的に言いますと、情報なのです。日本の憲法でも、国連憲章でも、譬なのです。日本国憲法とか国連憲章というと、絶対的なもののように思えますが、だいたい地球があることが譬なのです。
そういう大きい立場から、永遠を考えるべきなのです。こういう考え方が、日本にはないのです。
●地球があることが譬
日本の国があることが、譬なのです。天皇制は、すばらしい事がらの譬なのです。女性がいることが、譬なのです。こういうことが本当に分からなければ、本当の人生をとらえることはできません。
こういうことは、どの本にも書いていません。誰も語ったことがないのです。今まで、私たちが経験した学問とか常識は、全部情報ばかりでした。宗教も、道徳も、法律も、全て情報です。日本の憲法が情報なのです。
日本人という立場で考えますと、憲法は絶対です。しかし、日本があることが、譬なのです。天皇制がすばらしく崇高きことの、譬なのです。こういう思想は、日本にはないのです。
しかし、これが分からなければ、永遠の命は分かりません。永遠の生命を知るためには、聖書の中の急所をまず勉強しなければならないのです。
釈尊が明けの明星を見たという事件の前に、イザヤが現れています。彼は、今から、二千六百年前の人です。釈尊が現れたのは、今から二千五百年前です。イザヤは釈尊より前
にいたのです。
イザヤは、天から明星が落ちたと言っているのです。これが悪魔なのです。明星が稲妻のように、天から落ちたのです。イエスはそれを見たと言っているのです。
悪魔とは何かということです。悪魔の正体が分かってくると、初めて、全世界に対する見方が変わってくるのです。悪魔が天から落ちたということは、霊の世界から肉の世界へ落とされたのです。
悪魔がいた霊の世界は何かといいますと、旧約聖書は次のように述べています。
『あなたは知恵に満ち、
美のきわみである完全な印である。
あなたは神の園エデンにあって、
もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。
すなわち赤めのう、豊、骨玉、貴かんらん右・
緑柱石、縞めのう
サファイヤ、ざくろ右、エメラルド。
そしてあなたの象服も彫刻も金でなされた。
これらはあなたの造られた日に、
あなたのために備えられた。
わたしはあなたを油そそがれた
守護のケルブの山に置いた。
あなたは神の空なる山にいて、
火の石の間を歩いた。あなたほ造られた日から、
あなたの中に悪が見いだされた日までは
そのおこないが克全であった。
あなたの商売が盛んになると、
あなたの暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。
それゆえ、わたしはあなたを神の山から
汚れたものとして投げ出し、
守護のケルブはあなたを
火の石の問から追い出した。
あなたは自分の美しさのために心高ぶり、
その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、
わたしはあなたを地に投げうら、
王たらの前に置いて見せ物とした。
あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたについて驚く。
あなたは恐るべき終りを遂げ、
永遠にうせはてる。』(エゼキエル書28・11〜19)
これを簡単に言いますと、神の山とは、神のいる場所、神のジャンルです。そこに輝く栄光の固まりのようなものがあった。それが反逆するきざしが見えた。そこで光り輝くものを、石ころのように取り扱わねばならなくなった。これが悪魔なのです。
悪魔とはどういうものかと言いますと、ルシファーと呼ばれる大天使なのです。大天使とは何を意味するかと言いますと、すべてのエネルギー全体を支配する役割を与えられていたのです。これが天使長なのです。
神がそういう人格を選んで、神の国の大番頭にした。総支配人にしたのです。神は自ら仕事をしません。神は意志そのものであって、御心そのものです。御心とはウィル(will)なのです。命には意志があります。命の意志が神なのです。神の意志に従って、法則が発生します。これがワード(word)です。これが神の言葉です。それから、神の意志、または本質に従う動きワーク (work) があります。第一の神がwill、第二の神がword、第三の神がworkです。三つのWがあるのです。
第一のwillは、宇宙の根本的な意志です。第二のwordは言葉です。第三のworkは働きです。これは、原理、原則、原動力ということもできるでしょう。大宇宙には、原理、原則、原動力があるのです。大宇宙のエネルギーは、こういう形でできているのです。
第一の神は父なる神、第二の神は子なる神、第三の神は御霊なる神です。これを三位一体の神というのです。これは聖書独特の神であって、聖書以外にこういう神はありません。
●三位一体の神
三位一体の神は、自ら自分を現すことをしません。それを天使に任せているのです。神につかわされて、神の心を顕現する働きをする天使があるのです。この天使にも、二種類あって、物理的に働く天使と、心理的に働く天使とがあるのです。
とにかく、宇宙は、常識で考えられるようなものではありません。地球構造は、人間の常識で考えるような単純なものではないのです。もっと重厚で幽遠なものなのです。
この宇宙に死がどうしてできたのか。死の法則とは何か。万物が死ぬ、人間が死ぬのはなぜかということです。やがて地球は崩壊します。物理的な法則は、単なる法則ですから、変化することは充分にありうる。物理法則は永遠不滅のものではなく、暫定的なものなのです。
ところが物理学は、物理法則が絶対だと考えるのです。これほどこまでも物理学の考えであって、命は学問よりも大きいのです。命は地球より、太陽よりも大きいのです。太陽は命を顕現しているだけであって、絶対ではない。もっと大きいものがあるのです。
自分の中に、自分よりも尊いものがあります。天の中に、天よりも高いものがあるのです。人間の中にある命は、人間よりも高いのです。命という絶対最高のものを、人間という形式で、経験しているだけのことなのです。私たち人間が偉いのではないのです。
福沢諭吉の言うように、独立自尊は間違っています。独立自尊を言うと、人間はかえって小さくなってしまうのです。もっと大きく見ようと思ったら、自分の中に自分よりも高いものがあることを、見つけなければいけないのです。
福沢諭吉は、天は人の上に人を造らなかったと言いますけれど、神は人間よりも大きい人間を造ったのです。これがイエスなのです。これを日本人は知ろうとしないのです。
日本人の教養は、きわめて低いのです。日本の大学のレベルが低いのです。学問の中に学問よりも高いものがあるのです。私たちはこれを発見しなければならないのです。
一体、死の法則が、この宇宙にどうして発生したかということです。大天使が、自分の中にある栄光、輝き、知恵、力が、自分自身の力であるという錯覚をしたのです。そして自ら神であろうと考えた。自分の思想を、神よりも高い所におこうと考えた。自分の位を、神よりも高い所に置こうと考えたのです。大天使が神に反逆した結果、悪魔になったのです。悪魔が独立自尊したのです。
人間よりも、生きているという事実に目をつけるのです。学理学説とか、人間の経験に日をつけないで、人間の本質、生きているということに、目をつけるのです。
太陽は、天にあるものを象徴しているだけなのです。太陽は絶対ではないのです。太陽系宇宙がある間は絶対ですけれど、太陽系宇宙は永遠のものではないのです。従って、地球も永遠のものではないのです。
現在の地球は未完成です。こういう大きな思想をあたりまえのごとく考えて頂きたいのです。そうすると、男と女の問題も解けてくるのです。
私たち人間の生活の行きづまりとか、困難さは、とるにたらないことです。第一に考えなければならないことは、死という法則が宇宙に存在していることです。そういう法則がどうして宇宙に存在するかということです。
この原理が悪魔です。悪魔の説明が、キリスト教ではできないのです。キリスト教以外の宗教でも、悪魔の説明ができる宗教は一つもありません。
●宇宙に死の法則が発生した
死の法則が発生したので、神がこれを始末しなければならなくなった。大天使が自ら神であるかのように考えたことが、死の法則が発生した原因なのですが、それについて神が責任を持たねばならなくなったのです。
死の法則はどうすれば消えてしまうのか。神が全知全能の力によって、悪魔を叩きつぶすことはできます。ところがそうはしない。なぜかというと、神は完壁無類の方法をしたいのです。
神が全能力をもって悪魔を踏みつぶすことは簡単です。そうしても、悪魔は神の上に立とうした考えをやめないのです。自分ほどの能力があれば、神の上にすわるのは当然だという考えを、撤回しないのです。
悪魔を叩きつぶせば、悪魔はいよいよ恨みが残って、悪魔自身の神に対する憎しみが固まってしまうだけなのです。死が単なるエネルギーなら、これをつぶすのは何でもないのですが、単なるエネルギーではないのです。嘘の世界を創造する恐るべき心理的エネルギーなのです。だから神でもこれを叩きつぶすことができないのです。
ほとんどの人が自分は死なねばならないと思っているでしょう。死なねばならないということを私がいくら論破しても、そう言われればそうかもしれないが、やはり死ななければならないと思われるでしょう。精神的な思想は上からいくら押さえつけて捻りつぶしてもだめなのです。悪魔自ら神になろうと考えて、反逆した。この考えがまちがっていることを、悪魔自身が悟るように、仕向けなければならないのです。
人間の場合でも同じことがいえます。人が死ぬべきものではないということを、いくら聞かされてもだめでしょう。自分は死ぬのだという気持ちが、自分の中から消えてしまわなければならない。自分は死ぬのだという気持ちが自分の中にある間は、どんなに悠遠な論理を展開しても、その論理を聞いてはいるけれども、自分は死ななくなったとは思わない。やはり死なねばならないという気持ちを持ったままで、話を聞いているだけなのです。自分自身が、本当に死が嘘だということを悟る以外には、どうしようもないのです。
●死を自滅させるために天地が創造された
そこで、死の法則を黙らせるために、死の法則自体が自滅することを考えなければならないのです。これが神の天地創造の根本原因なのです。
旧約聖書の一番最初に、創世記があります。創造記と言わずに、創世記と言っています。ここに注目すべきなのです。
創世というのは、物が造られたのではないのです。物はなかったのです。太陽はなかった。地球はなかったのです。植物も動物も、鉱物も、一切存在しなかった。物は宇宙には存在しなかったのです。
例えば、アンドロメダ星雲は、全くのガス体です。銀河系宇宙もそうです。太陽系宇宙以外は、全部ガス体です。そこに固体の惑星があるように天文学者は言っていますが、それはユダヤ主義の学説であって、本当に見てきたのではない。単なる推測の概念に基づくものです。
人間の推測は、決して正しいものではありません。だいたいこうだろうという判断なのです。地球に生きている人間が判断すると、地球のようなものが他にもたくさんあるだろうという判断になるのです。
太陽系宇宙だけには、地球に似た惑星があります。しかし地球とはまるで違います。命は全くありません。地球から遠く離れてしまうと、同じ太陽系宇宙でも、海王星とか冥王星は、ほとんどガス体の可能性が強いのです。
いわゆる惑星は、ガス体であることが原則なのです。大地があるような惑星があるとしても、そこには生命は全然ありません。地球は全く独自の存在です。地球という不思議な惑星が太陽系にあることは、宇宙の迷なのです。
何のために地球があるのか。私たちは地球に住んでいますから、これがあたりまえだと考えやすいのです。それは地球に住んでいるものの単なる常識であって、植物がある惑星、動物がいる惑星は、どこにもないのです。
地球以外に人間がいる惑星があるだろうという仮説は、ユダヤ人がつくつたSFであって、これは全くの作りごとなのです。
そういう意味でも、現代人の考え方は、非常にいいかげんです。地球が地球であるというのは、すばらしく高い合理性がある証拠なのです。大宇宙における唯一無二の絶対的なシンボルになるのです。そういうものを何のために神が造ったのかというと、死を自滅させるためなのです。
万物を造るというかっこうで、実は世が造られたのです。ゼネレーションが造られたのです。今は万物が存在するという不思議な世代なのです。
●万物が存在するのは宇宙の異常現象
やがてこの世代は消えてしまいます。万物が存在するというのは、宇宙の異常現象です。太陽系宇宙の異常現象であって、ハプニングなのです。
物質が存在する地球にいれば、物質が存在するのがあたりまえのように考えられる。これは地球にだけ通用する常識、または学識なのです。地球以外には、この考えは通用しません。こんな敵密で周密な合理性は、再び宇宙に現れることはないでしょう。
すばらしい合理性が、今地球で、生命現象として展開しています。神が口を開いて譬を語っているのです。これが天地創造の大原則なのです。
地球が何のために存在するのか。死を滅ぼすためです。悪魔を自滅させるために、神が万物という物質的な構造が現存するような世界を造ったのです。
物質的な構造の世界を造ったことによって、なぜ悪魔が自滅するかということです。般若心経によれば、「色即是空」である。物質的現象は空である。実体的には存在しないと喝破している。そして「是諸法空相」。存在する全てのものに、現象的な実体はない。それがこの世においての本当のあり方だといっている。
従って、『無限界乃至聖息識界』視覚の領域から意識の領域に至るまで、ことごとく存在しないといっているのです。般若心経は東洋人とか、地球全体の人間の考え方の間違いを指摘しているだけではなくて、宇宙全体に存在する悪魔の反逆の根本思想が、根底から間違っていると喝破した、恐るべき思想なのです。異邦人の中から、宇宙全体の誤謬にかかわる間違いを指摘したというのは、全く破天荒な考えであると言えるでしょう。般若心経は人間の思想を超えた、宇宙の真理といえるのです。
パウロは新約聖書の中で、『アブラハムは無きものをあるがごとく呼びたもう神を信じた』といっているのです(ローマ人への手紙4・17)。現象世界は実体的には存在しないが、あたかも実在するかのように神が見せかけているのです。
●人間は夢幻の世界に生きている。
時間も空間も、すべて流動的に存在している。川の流れのように、すべては流れ動いているのが真相ですが、人間は固定した物質的存在があると思いこんでいる。こうした人間の考えがどこから出てきたかという問題になります。
これは旧約聖書の創世記に聞かなければ分からないでしょう。創世記の冒頭に、『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた』 とあります (1・1、2)。
この記述について徹底的に解説しようとすると、膨大な話になりますので簡単に述べますと、悪魔が淵という固定的なものが存在すると錯覚したのです。淵というのは川の流れの澱んだ所で、いわゆる「わだ」と呼ばれる部分です。
これは天地創造以前の、神と悪魔の思想状態を比喩的に言い表したものですが、悪魔は固定的、停止的な思想を主張し始めたのです。淵というのは水が深くよどんでいるが、やはり少しずつ動いています。非常に緩慢な流れではあるが、流動しているのです。しかし 悪魔はその表面だけを見て、固定的、停止的な状態が存在すると考え、悪魔独自の固定的な立場が存在すると主張し始めたのです。この悪魔の考えが人間に反映した結果、目に見える現象世界が実在すると思いこんでしまったのです。
人間は全て、物質的現象が実体であると考えている。これは悪魔の思いを信じていることになるのです。この意味で言えば、人間は全部悪魔の支配下にあることになるのです。
ところが、『神の霊が水町おもてをおおっている』という事実があるのです。水のおもてとは水の本質ということです。全ての存在の本質には、命のエネルギーが働いている。これが神の御霊の働きなのです。
一体、悪魔の思想が正しいか、神の思想が正しいかを人に判断させるために、この両者が現象的に経験できる形で現れた。これが天地創造の原因なのです。
その次にぜひ知っておいて頂かねばならない問題は、陥罪という事件です。これが男と女との関係に重大な影響を及ぼしています。いわゆる善悪を知る木の実を取って食べたという事件です。
これも詳しく述べれば、膨大な論理の展開になるのですが、簡単に言いますと、神が人間の祖先であるアダムに、『あなたは園のどの木からも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』 と言ったのです (創世記2・16、17)。
ところがへびは、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』と反論した (同3・4、5)。そして、木を見ると、『それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、』 (同3・6) とありますこれは御伽噺のような記述ですが、人間が死んだという驚くべき心理的変化を、如実に書いているのです。
●なぜ人間は死んだのか
本来、人間は死ぬべきものではなかった。死に関係がなかった。それが決定的に死んだのはなぜかというと、自分という立場に立って、善悪利害を判断し始めたからです。宇宙には、善も恵もない。利益も損害もない。ただ神という事実があるだけです。それを、自ら善悪を判断する人ができた。
人は善悪利害得失毀誉褒貶を判断する時、自分を絶対とする場に置いている。つまり自分が神という場に立っているのです。
本当に善悪利害を判断できるのは、神しかいない。宇宙全体を徹底的に知っていなければ本当の善悪を判断することはできない。これができるのは神しかいない。人間は自分の立場からしか善悪を判断できない。人間が善悪の判断をするというのは、誠の神を押しのけて、神になったということです。
『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった』(同3・21)とあるのは、人問が神のようになったことを意味しているのです。その結果、人間はあらゆる矛盾、悩み、混乱を背負い、死ぬことになったのです。
死ぬべき状態に陥った人間が、どうしたら死なない元の状態に帰ることができるか。これは人間の本質をもう見直す以外にはないのです。肉体存在の自分ではなくて、生理機能、心理機能の本質である魂を見ることなのです。
現在の男女関係は、肉体的にしか考えていません。セックスというのは、肉体的なものではないのです。人間が生きているのは、肉体ではない。人間の本質は、マインド(mind)です。マインドの本質は、宇宙構造の謎みたいなものです。
神はウイル(will)です。人間はマインドです。神は御心です。人問の本質は精神なので
す。ウイルとマインドの関係が分かると、初めて、神をつかまえるにはどうしたらよいかが分かってきます。命をつかまえれば、死なくなるのです。
神は、地球の中から死を締め出す方法をとっている。そのやり方が理解できれば、自分の人生から、死を放逐することができるのです。そのためには、陥罪という事件を、もつと詳しく勉強して頂きたいのです。
現在の地球に大天使ルシフアーがどのように働いているかといいますと、うまく神の手にひっかかつて、地球に缶詰にされているのです。そのかわりに、ルシフアーは文明を支配しているのです。政治、経済、教育、宗教のあらゆる面にわたってユダヤ人が支配していますが、ユダヤ人の考えは全てルシフアーの考えによるのです。
今の文明はルシファーという闇の力によって支配されていますが、その中枢にいる人々は地球を完全に支配しようと考えています。あらゆる宗教を廃止して、ルシファー教だけを認めようと企てていますが、その計画は見事に失敗するでしょう。なぜなら、ルシファーの考えは宇宙の法則に反しているからです。
やがて闇の力が完全に滅ぼされて、誠の光が中心になる世界がやってくるでしょう。神はそういう世界がくる時を、じつと待っているのです。
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