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    18西洋文明と東洋文明の原点は一つ

西欧文明の基本である聖書と、東洋文明の基本である仏法は、全く異質のものであると考えられています。宗教の教義にとらわれている人にとっては異質のものですが、大きく命という点から考えれば一つになるのです。一つにならなければならないのです。
 釈尊は何を考え、何を悟ったのか。釈尊は紀元前五百年前、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりの、釈迦族の都カビラヴァスッで生まれました。父である王はゴータマ・シュツドーダナといい、母である妃マーヤー(摩耶) は同じ釈迦族の一族で、コーリヤ族とよばれるデーヴアダハ城の姫で、王のいとこにあたっていました。
 結婚の後、長く子供に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜に、自象が右わきから胎内に入る夢を見て懐姫したといいます。言い伝えによれば48日に王子は生まれました。シュツダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味の、シツダールタ(悉達多)という名前をつけました。
 しかしマーヤー夫人は間もなくこの世を去り、太子は夫人の妹マハープラジャーパティ一によって養育されたのです。太子は何不自由なく育てられ、宮殿で歌舞管弦の生活を楽しみましたが、しきりに沈思瞑想して考え込むようになっていきました。
 「宮廷の栄華も、すこやかな肉体も、人から喜ばれるこの若さも、私にとって何であるのか。人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めるというのは、自分が老いと病いと死を免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。正しいものを求めるというのは、この誤りを悟って、老いと病と死を超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない」
 このように心を悩ます日々が続いて、太子二十九歳の年、一子ラーフラが生まれた時に、ついに決心をして出家の身となったのです。太子ははじめバカヴア仙人を訪れて、次にアーラーダ・カーラーマとウドラカ・ラーマプトラを訪れて修行をしました。それは悟りの道ではないと知った太子は、マガダ国に行き、ウルヴィルヴアーの村の中で激しい苦行をしたのでした。
 それは誠に激しい苦行で、釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、これからも出ないであろう」と言われたほど、世にもまれな苦行をしたのです。
 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は六年の苦行を未練なく投げ捨て、ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータという娘から乳がゆをもらって健康を回復したのでした。
 この時、それまで太子と一緒に苦行をしていた五人の出家者たちは、飲んではならない乳
ゆを飲んだ太子を見て、堕落したと勘違いをして太子を見捨てて去っていきました。

 そして太子は菩提樹の下にすわって座禅を組み、静かに黙想していた。そして四十日目の早朝に、「明けの明星」を見て大悟した。言い伝えによれば太子三十五歳の年の128日でした。太子は何を悟ったかといいますと、「明けの明星」を見て、やがて全く新しい世界が来ることを直感したのです。生老病死によって苦しむことのない本当の世界が来ることを予見したのです。
 イエスは何を信じ、人々に何を教えたのか。イエスは彼自身の命の本体、実質が神であることを発見したのです。
 ユダヤ教は神と人は全く別である。神は絶対者であり、人間とは別次元の人格である。神はどこまでも人を支配するものであり、人は神に従う者であると考えたのでした。
 ところがイエスは、神と人は一つ (インマヌエル) である。神が人という姿かたちで生きている。神は自分を生かしている父 (おとっつぁん) であると主張したのです。
 イエスは、ユダヤ教の宗教家、律法学者と激しく対立し、ついに捕えられ十字架にはりつけられ殺されたのです。しかし彼が生きていた命が死なない命であったので、復活して、四十日の間、人々の前に現れて、飲み食いしてみせたのです。現在の人間が持っている死ぬべき命、死ぬべき体ではない、全く新次元の死なない命、死なない体があることを証明してみせたのです。実は、西欧文明の基本である聖書と、東洋文明の基本である仏法と、この二つを一つにしてみなければ本当の命は分からないのです。牧師や神父は、キリスト教の神学は知っていますが、仏法の哲学は分からないのです。だから本当の命が分からないのです。
 イエスの言動、気持ちをよく見ていけば分かることですが、彼は釈尊を知っていたのです。又、釈尊もキリストを知っていたのです。彼は、イエスが生まれることがキリストが生まれることであるのを、直感的にとらえていたのです。これが釈尊が見た「明けの明星」です。釈尊はイエスが生まれることを予見していた。それが弟子に伝えられ、インドで五百年後まで伝えられていたのでした。
 イエスが生まれることが、キリストの誕生であることに、ユダヤ人が認識した根拠はどこにあったのかということです。
 新約聖書マタイによる福音書二章のはじめに、次のような記事があります。イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのべツレヘムで生まれた時、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みに来ました」 (212)。東方の博士たちは、インドの学者であるというのが定説です。彼らは異邦人です。異邦人が何のためにキリストを拝みに来たのでしょうか。この説明ができる牧師も、神父も、未だかつて地球上に生まれたことがないのです。ローマ法王でも、国際キリスト教大学の教授でも、マタイ伝二章の説明ができる人はいないのです。この説明ができなければ、「明けの明星」は分からないのです。
 イエス・キリストの実体は何だったのか。彼はどういう命を生きていたのか。彼は来るべき新しい命、未来次元の永遠の命を生きていたのです。驚くべきことに、イエス自身が「私は輝く明けの明星である」と言っているのです (ヨハネの黙示録2216)。「明けの明星」とは、イエス自身だったのです。
 釈尊は輝く明けの明星を見たのです。つまり、復活のキリストを見たのです。釈尊は「明けの明星」を見て、一切空と看破した。彼はなぜ一切空と看破できたのか。復活したイエスを見たのであるが、これは何を意味するのだろうか。
 イエス・キリストが復活したというのは、現在の物質的現象世界ではない、全く新しい次元の世界が来ることを意味しているのです。現在の世界には砂漠、地震、洪水、飢饉があります。台風、津波、エイズ、ガン等の様々な病気、倒産、内乱、戦争、犯罪に満ちています。そして一番いやな死がある世界です。未完成で、不完全な世界です。
 すべての人の心からの願いは、地震、洪水、飢饉、犯罪、病気がない世界です。人々は心の底で、そういう世界が来ることを乞い願っているのです。
 来るべき新しい世界は、病気も犯罪も、天災も死もない、完成された世界であって、新約聖書の黙示録では「新天新地」という言葉で述べています。それが必ず実現すると述べています。
 ユダヤ人の祖先であるアブラハムは、今から四千年前に、それを発見しました。そこで人類の指導者になったのです。アブラハムの子孫であるユダヤ人が、現在世界をリードしているのは、アブラハムの功績によるのです。神がアブラハムにそういうことを約束した。これが旧約聖書、新約聖書の原理になっているのです。
 釈尊は、死や病気がない来るべき新しい世界を見たので、現在の死ぬべき人間がいる世界を、一切空と否定したのです。色即是空、五蕗皆空、無老死、無苦集滅道と断定したのです。そして、般若波羅密多せよ、死ぬべき世界から早く出て、死なない世界である彼岸へ早く行け、→日でも、一時間でも早く行けと、叱咤激励したのです。
 仏法の根本は「明けの明星」です。新約聖書の中心も「明けの明星」です。仏法も、新約聖書も、「明けの明星」、つまり復活のキリストを中心にして展開しています。だから、仏法と新約聖書は、根本的に一つのものなのです。これに気づいている学者、宗教家が世界にいないのです。
 現在、東洋と西洋は全く異質なもので、ばらばらに展開していて、様々なトラブルを起こしている。政治、経済、宗教、人種の違いが、世界中を不幸に陥れている。「明けの明星」の本当の意味が分かれば、東西文明は完全に融合し、世界に真の平和が訪れるでしょう。これ以外に、行きづまった文明を打開する方法は、全く無いのです。
 空とは一体何であるか。釈尊はなぜ一切空と言い切ったのか。これを知るためには、「明けの明星」である復活のキリストを、どうしても知らなければならないのです。
 仏教が完全に堕落したのは、復活のキリストをまともに勉強しないからです。仏法の淵源である新約聖書を勉強しないからです。
 ヘロデ王は東方の博士たちから言われなければ、キリストの誕生について全く気がつかなかったでしょう。キリストの誕生に気がつかなければ、新約聖書は成立しなかったのです。東方の博士たちが、新約聖書への道案内になっているのです。
 従って、新約聖書を正しく学ぶためには、まず東方の博士たちの気持ちを理解しなければならない。東方の博士たちの気持ちとは、一切空を学ぶということです。
 現在のキリスト教が根本的に間違った原因は、自分が救われたいと思っていることです。自分が幸福になりたい。自分が学びたい。自分が理解して、自分が天国へ行きたいと考えているのです。この気持ちが悪魔の気持ちなのです。この点は、イエスとユダヤ人が激突したと同じ原因なのです。ユダヤ人は、「私たちは不品行の結果生まれた者ではない。私たちにはひとりの父がある。それは神である」と主張したのです (ヨハネによる福音書841)。
 それに対してイエスは言った。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は始めから、人殺しであつて、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも本音をはいているのである。彼は偽りの者であり、偽りの父であるからだ。しかし、わたしが真理を語っているのに、あなたがたはわたしを信じようとしない」(同844)。
 イエスから見れば、ユダヤ人の考えが、まさに悪魔の考えだったのです。自分を絶対とする考えは、自分を神とする考えで、外道の考えになるのです。
 そこで、新約聖書にある永遠の生命、神の国に入るためには、まず間違った自分の考え、悪魔の考えを捨てなければならない。これが釈尊が言った一切空を悟ることです。色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃を体得することによって、「明けの明星」である復活のキリストを学ぶことができるのです。
 だから、般若心経と聖書を学ぶことは、真実を学ぶための唯一の方法になるのです。これ以外に日本人として命を学ぶ方法は全くないのです。
 私が述べていることは、日本人を救うことではありません。ユダヤ人に覚醒を与えるためなのです。
 ユダヤ人が文明をつくったのですが、誤った方向につくつてしまった。現世で生きることを唯一の目的にして、現世のための文明をつくつたのです。それが間違っていることは、現在の行きづまった状態を見れば分かるのです。皆、苦しんで、悩んで、悲しんで、死んでいくのです。六十四億の人類は、全員死んでいく運命にあるのです。私はこれを黙って見ている訳にはいかないのです。六十四億の人類が聞かなくても、文明の間違いを警告しなければならないのです。
 イエスは、来るべき新しい命、死なない命を生きてみせた。これが彼の復活です。ユダヤ人は復活の命に反対して、それを覆い隠すことに全力を注いだ。豪華絢欄たる文明をつくりあげて、イエスの復活から完全に目をそらしてしまったのです。
 あらゆる学理学説は、イエスの復活を否定することに躍起になっているのです。学が取り上げなければならない最大のテーマは、イエスの復活であるのに、これを取り上げている大学は一つもありません。
 ユダヤ人がイエスの復活を徹底的に覆い隠しているので、世界中の人間が死ななければならない運命におかれているのです。イエス・キリストが誕生して、地球上に新しい紀元が始まった。これが西暦紀元です。西暦紀元に生まれた人間は、本当は死ななくてもよいのです。
 人類が死ななくてもよい時代を迎えて二千年にもなるのに、いまだに人類は死に続けている。なぜか、人類の長子であるユダヤ人がそれを阻止しているからです。このユダヤ人のやり方に神が激怒した。ヨーロッパで続いたユダヤ人の迫害、ヒットラーによるユダヤ人六百万人の殺害は、何を意味しているのか。六百万人という想像を絶する人々が、紙屑のようにガス室で殺されていった。こんなことは起ってはならないことです。起るはずがないことが、白昼堂々と行われたのです。
 断っておきますが、私はヒットラーに加担する反ユダヤ主義者ではありません。私は心の底からヒットラーを憎んで、憎んで、憎み続けているのです。ユダヤの人々を心から敬愛し、尊敬しているのですが、残念ながらイエスの復活を否定するユダヤ人の考えを容認するわけにはいかないのです。ユダヤ人がイエスの復活を受け入れないために、世界中の人間が死に続けているのです。核兵器は人類の一部の人々を殺害するだけですが、文明は全世界の人間の魂を全部殺している。こういう恐ろしい行為を許すわけにはいかないのです。
 私はユダヤ人の覚醒を心から願っているのです。ユダヤ人がもし悔い改めず、今の政策を続けるなら、世界の文明は決定的な破滅を迎えるでしょう。その時人々は、世界中でユダヤ人に非難の矛先を向けるでしょう。そうすればナチスがしたことよりもっとひどい惨状が起きるでしょう。新約聖書はこれを「ヤコブの悩み」と言い、「大難難時代」と言っています。私は何とかしてそれを食い止めたい。アウシュビッツよりもっとひどいことが起きるのを、何とか阻止したいと願うのです。私は全力を尽くしてそれを食い止めたいと思うのですが、私一人の力ではとても及びません。私に協力してくださる人が出ることを願ってやまないのです。
 ユダヤ人さえ復活の命を受け入れれば、世界は見事に立ち直るでしょう。世界に完全な平和が訪れるでしょう。そして死なない命、永遠の生命に基づいた、全く新しい文明が現れるでしょう。人々が心の底から願っていた以上の文明、刑務所も病院も軍隊もない社会が現れるでしょう。